「剣の宝庫 草薙館」の
開館に向けて 福井款彦

第五回 切り拓く

熱田神宮と刀剣の未来 その教えと導き

 刀剣には、切断という機能的一面をポジティブに解し、沈滞する現状を打破して新たな始まりを示唆する「切り拓く」という徳性的解釈がよくなされる。
 新たな道を切り拓くには多少のリスクをも受け入れる度量や覚悟が必要で、そうした勇気を以て決断しなければならない。当然その正否は歴史の審判に上がることになる。
 一時の感情でなくリスクを凌駕する成果があったのか、其処に上手く知恵が働いていたのかが常に問われる。昔から剣が「勇」即ち「決断」とともに「知恵」をも表徴するとされる所以であろう。
 決断して新に切り拓かれたあとも大切だ。守勢に回れば時間の経過は予想を超えて早く、相対的には後退を余儀なくされる。せっかくの決断も、その殆どはやがて忘れ去られる。
 太陽は毎日昇る。しかし昨日と今日との違いを意識し、日々新たな課題と向き合って懸命に生きようと心がけている人は常に若々しい。
 伊勢の神宮に於ける式年遷宮もまさにそれを表している。社殿も装束や神宝も、世代交代を上手く踏まえた二十年毎に新しくなり、いのちが甦る。即ち新生を繰り返すのである。ただ、その造替は同じ様に、とよくいわれるが、子細にみれば必ずしもそうではない。遷宮直後から次の遷宮を見据えて、厳正な考証が行なわれ、些小でも毎回修正が行われ、途絶えていた技術等も出来る限り復元させ、それによる調製変更等が加えられていることを知る者は意外に少ない。
 繰り返しの中にあっても、常に始原を探求し、惰性・打算を排除して知恵を駆使し、勇気を以て決断実行して前進する姿勢こそ大切で、その「常若」維持には欠かせないのではないかと考えている。
 祖型を保守し、そのこころを次代に伝えていくには、歴史に学びつつ、常に始原と未来とを見据え、そのための革新・改革を先送りにしない勇気ある決断が必要なのである。

ハレ(非日常)の展示を

 昔からよく言われているが、れほど怖いものはない。特に伝統文化に関わる立場にいるとそれを強く感じる。その戒めを含んだ言葉だったのだろう、奉職間もない頃、時の岡本宮司から「同じ事をただ単に繰り返していたのでは後退でしかないんだよ」と教わった時は年々歳々の祭礼行事を覚える事に精一杯だったから、その耳を疑った。やがてその真意を理解した時には目から鱗が落ちるという表現程に衝撃的で、今も忘れられないでいる。
 祭りには祖型があり、それを反復、即ち繰り返すのが基本である。一見同じようだが、その奉仕者は異なる。実はそれを支える人も、拝観する人も、何よりも世相は刻々と変化しているのだ。同じ事でも相対的には決して安易なものではない。惰性や強制では継続は難しく、やはり承け継ぐ者による自発的で新鮮・真摯な心持ちと、如何なる時にでも屈しない強い決意、これなくして祖型に内在する正しい「こころ」は伝えられないのだと思う。長い時の流れに形態が変容したり、思わぬ中断を余儀なくされる事はある意味致し方ない。それでも反復や復元の中で如何に本質を守り伝えてきたのかが実は大切なのである。
 博物館についても、展示物を並べ、通り一遍の解説を付すだけで事足れりとする時代では既にない。物の研究は日々進化している。その成果に目を瞑って、昔ながらの概説的解説をそのままに、同様なる展示を無駄に繰り返しているようでは将来が危うい。
 展示にかかわる学芸員も日々の研鑚、調査や研究成果が必要なこと言うまでもない。しかし、究極の課題は展示物の経年劣化や毀損のリスクを出来るだけ抑え、それが持つ本来の意味と尊さとを如何に拝観者に感じて頂けるかであり、そのための研究と努力と工夫が、特に神社宝物館では何よりも大切で、そのような展示や人材が求められているのだと思う。
 ところで、そうした宝物研究や個々の課題等とは別に、筆者には以前から気がかりだったことがもう一つある。
 それは、或るテーマを持ち、新たな知見を得んとした意図的なものでなく、何気なく訪れて見終わった時にでも、「入って良かった!」「また来たいなぁ」といった心持ちにしてくれるものが必要ではないか。即ち、神社を訪れた時、祈念や祈願という目的も当然あるが、それのみでなく、神域に足を踏み入れたときに感じる、神気というか清々しさに近く等しい感覚であり、それを醸し出す設えである。
 熱田神宮は都会の喧噪から逃れてこころ落ち着くオアシスとも言われる。
 緑の樹木生い茂る中、綺麗に掃き浄められた参道を進み、手水で身を清めて神前に額づき拍手を打ってお参りした後の心洗われる清々しさは格別である。
 これまで注目されていなかったが、この参拝の過程やその後に感じられる清々しさ心地よさに等しい感覚が宝物館でも拝観時やその後に必要なのではなかろうかと思う。
 もちろん、毎日欠かさずに神社への参拝をしておられる方もいよう。しかし参拝はやはり特別な非日常と見るべきである。博物館へも毎日行く人は恐らく職員以外にはいない。動物園も水族館も博物館だ。毎日行っていたら感激や思い出が希薄になり、子供でも大半は飽きてしまうだろう。そう、我々は非日常に感激し、見直し聞き直し省みては新たなる精気を養い、そして日常(ケ)の大切さをも知るのである。
 民俗学ではこの非日常を「ハレ」という。宗教学でも、この「ハレ」を共有することが神聖性の維持や神威再生の重要な要因と考えられている。故に、常にこの「ハレ」の場に居ながら、その常態化にこなれてしまった者では、「ハレ」を期待している人々と、その感動を共有しづらいのではなかろうかと思えてならない。
 草薙館も、神宮が有する自然や独自の雰囲気と共に、宝物自ずからに備わる力による効果的な演出と展示のストーリーが大切である。さらに来館者の非日常性をわきまえ、物慣れせず感動やイメージを共有出来るワクワクする新鮮な感覚を持ったスタッフにより作り上げていくことが求められるのではないかと思っている。

空から見た熱田神宮境域

空から見た熱田神宮境域
熱田の森は市民のオアシスであり、その景観は今も蓬莱の地を彷彿とさせる。

動的展示と体験コーナー

 子供が未だ幼かった時のとある休日に、連れだって何とはなしに大垣城に出掛けたところ、着くなりパン、パン、パンという鉄砲の音に驚かされた。何事かと硝煙しょうえんの匂いのする方に足を進めると甲冑を身に着けた人が数人、火縄銃を(空砲)撃っていた。指揮を執っていた武将姿の面頬めんぽうの中を除くと鉄砲隊を組織して活躍していた知り合いのHさんであった。どうやらお城のイベントに協力出演していたのである。実演が終わって挨拶にと近付いたら、先客がいた。白杖を持った青年で、Hさんが手にしている未だ湯気の立つ火縄銃の銃身を握って離さないでいた。側で二人の会話を聞いて状況が把握された。青年は初めて火縄銃という物を知った。目が不自由で形は見えないが、音と匂いを感じた。更に手に触れてその温かさと冷たさ、形や重みを必死に感じているのであった。目は不自由だが、それ以外の感覚を駆使して感じようとする青年と終始ニコニコと説明をしているHさんの姿、共に忘れられない光景であった。
 視覚に問題なければ、人は他の五感を忘れがちである。もっと耳や鼻や口、身体全体で感じなければならない。その事を私と子供等はその青年から教えられた。
 さらに目が見える恩恵を享受しているにも関わらず、我々はモノをしっかりと見ているのかという反省をも含めて…
 平成十年に始まった「熱田神宮に於ける刀剣並びに技術奉納奉賛会」(1)による神前での刀剣鍛錬や研磨等の技術奉納は、毎回生じる課題・難題を解決し、様々な要望にも常に応(2)、来る令和四年には二十五回という節目を迎える。既に世の人々にも認知され、熱田の夏の名物行事であると言っても過言ではない。
 この行事は、刀匠が熱田神宮の神前に設置された仮設鍛錬所で、七月七日前後の三日間という短期間に刀剣類を鍛造し、約一月後には研ぎ師等の職方が、こちらは旧暦七月七日前後の一日であるが研磨や白鞘やはばき等の製作技術を、同じく大前に設えられた作業台上で奉納する行事である。
 刀匠はじめ刀剣関係職方が草薙神剣を祀る熱田神宮を崇敬し、その神前で技術と共にその作品を奉納することは、南北朝時代の長谷部国信や江戸初期の越前康継による奉納の前例に倣うものであり、新旧両暦の七月七日に行われるのは、手入れの項で述べた神宮刀剣の伝世に多大なる役割を果たした神宝風入しんぽうかざはめ(虫干し)神事の祭日を意識してのことである。
 鍛錬二日目の午後、夜の焼入れまでの間に一般奉納鎚打ちとして刀匠指導の下、希望する拝観者も余鉄を実際に鎚打ちして奉納に参加することが出来、毎年長蛇の列を作っている。

一般鎚打奉納を待つ長蛇の行列

一般鎚打奉納を待つ長蛇の行列
午後1時から夕刻まで約300人が参加する!!
(写真は令和元年)

 暑い夏に、汗と炭で真っ黒になって頑張っている刀匠達を応援し、一打ちたりとても彼らに繋がって奉納しようとする姿は尊く、また貴重な体験でもあるのだ。(八月の研磨等の奉納では七月に打ち上げられた刀剣の研磨を体験できる)
 奉納行事は年に一度である。その時期に、付きっきりでない限り、それはほんの一部であろう。しかし、その作られる工程を境内で間近に目にし、様々なその場の雰囲気を感じられることは貴重である。
 新たに出来る草薙館には、宝物館が所蔵していた日本刀の鍛造工程資料がリメイクされ、材料の鉧・玉鋼などと共に展示し、もちろんそこに解説が付されていて知識として理解することは可能だ。しかし、飛び散る火花や鍛錬中の鉄塊表面の不純物を飛ばすために起こす水蒸気爆発の音に驚いたり、相鎚と掛け声にみる親方と向鎚を打つ弟子達との阿吽あうんの呼吸に感心させられたり、さらに鎚の重さや迫り来る熱気、浄闇の中で真っ赤になった刀身が神水を湛えた船に投じられる焼入れ一瞬の空気感や緊張感を其処には感じられない。それを感じたければ、刀匠の許しを得て鍛錬所に足を運ぶか、境内での奉納に遭遇するしかない。自発的か偶発的かはともかくも、鉄と火と水との格闘ともいうべき作刀を体感・体験できる機会を、年に一回であるが、この奉納行事が提供していることは間違いない事実である。
 それはまた、その端緒と性格は各々異なるものながら、前者の工程資料を「静的展示」とするならば、後者は「動的展示」であり、バーチャル(仮想)でない本物の「体験・参加型の展示」でもあるといっても良かろう。
 拝観者が体験できる内容は、それが身近でない場合であればあるほどに意義がある。作刀だけでなく、刀剣趣味や居合道や剣道、剣舞などをしている一部の人を除いて、普段の生活上身近にない刀剣類。それを実際に手にすると言う体験の意味は決して小さくないし、その後の展開はまた計り知れない程に大きい事であろうと思う。
 草薙館では、警察当局によるご指導の下、安全には最大限の配慮をして刀や脇指(真剣)、更には真柄太刀と称される大太刀(太郎と次郎)の実寸大同重量のレプリカを持つ事が出来る体験コーナーも用意されるという。〈後掲「剣の宝庫 草薙館の体験コーナーについて」参照〉
 真柄太刀と称される三口の大太刀は、奉納後の江戸時代には武器としてでなく、五月と八月の神輿渡御神事の神幸行列等で威儀(執)物として平和的に用いられていた事は前稿で言及した。しかし、いざ担いでみるとずっしりと重く、長くは堪えられない事にも気付く。現代の我々には、剛力無双であった真柄某の腕力に到底及ばぬ事のみならず、これを捧持して花を添えんと長い行列を成した江戸時代の神官達の辛さをも身に沁みて実感できるに違いなく、思わぬ体験となるであろう。
 体験コーナーでの体感が心をも揺さぶり、更なる関心を切り拓いてくれることを願っている。

小さなお子さんと共に向鎚を打たれる奉納奉賛会の髙山会長

小さなお子さんと共に
向鎚を打たれる奉納奉賛会の髙山会長

昭和十年の遷宮と天叢雲劔出顕之地鳥髪峰

 熱田神宮の遷宮は、江戸初期から二十五年毎に行われるならわしであった。そのころは尾張造りといい、御殿配置等がこの地方独特なる様式であったが、明治二十六年に明治天皇の思し召しによって伊勢の神宮に準ずる神明造の社殿様式に改められた。それから四十年を経て、腐朽破損、急増する参拝者の受け入れ態勢を整える必要もあり、昭和六年の帝国議会において国費百円の支出が決定し、翌年からその修造工事と境内整備が行われ、十年十一月一日に、本殿遷座祭が斎行された。
 この遷宮当日は総理大臣より「当日諸官員ニ休暇ヲ賜フ」という告示が出され、公立学校以下では授業休止となり、訓話を行い、熱田神宮遙拝が行われた。当日と翌日の奉幣祭には勅使(天皇のお使い)・儀仗兵一個中隊が派遣され、奉幣祭には東游あずまあそびが奉納された。さらに遷御の時刻には天皇が内庭に出御されて、ご遙拝あそばされたのである。
 このうように昭和十年の遷宮は伊勢の神宮につぐ重い扱いをうけたのであり、自然と全国からの参拝と崇敬とが一段と増したのは言うまでもな(3)
 毎年、島根県奥出雲町(旧仁多郡鳥上村)の道友会から熱田神宮への献穀があり、神宮もその献穀田の御田植えには神職が派遣される慣わしとなっている。その始まりは昭和十三年、爾来実に八十三年の長きにわたる至誠に貫かれた献穀なのである。さらに、その機縁となった事を尋ねると、草薙神剣即ち八岐大蛇伝承に基づく天叢雲劔出顕之(4)という島根鳥取両県境に聳える霊峰「鳥髪峰(船通山)」と熱田神宮との由縁を繋いだ堀江國蔵翁の請願により、昭和十年の熱田神宮本殿遷座祭に村長と小学校長と共に特別参列を認められた事に発するのである(5)。

標本には番号を打った小さな紙片が貼られているが名称は無く、仮に付すると以下の通りであろう。

標本には番号を打った小さな紙片が貼られているが名称は無く、仮に付すると以下の通りであろう。

(1)真砂鉄(まささてつ)(2)歩鉧(ぶけら)(3)蜂目銑(はちめずく)
(4)氷目銑(ひょうめずく)(5)玉鋼(たまはがね)(6)先花(さきはな)

 初献穀の翌十四年一月には荒木宗重氏により「叢雲鑪製鋼標本むらくもたたらせいこうひようほん」が献納されているが、同氏は堀江國蔵翁亡き後、その意志を継がれ、道友会の座長格として多年献穀に尽力された方である。
叢雲鑪とは、鉄師であった卜蔵家ぼくらけが明和五(1768)年から大正末年まで操業していた原鑪はらたたらを、昭和十三年に帝国製鉄株式会社が借り受けて終戦まで操業していたところである。献穀参宮者の名簿を拝見すると、その卜蔵姓の方も見える。更に現在唯一操業を続けている仁多郡奥出雲町大呂の「日刀保たたら」は鳥上木炭銑工場とりかみもくたんずくこうじようの構内に設置された靖国鑪やすくにたたらを昭和五十一年に復元したものだが、その工場長であった並河なびか孝義氏の名前も見えている。同氏からは鳥上木炭銑と出雲特産の真砂砂鉄まささてつが別途献納されている。

箱包みの表書き

標箱包みの表書き

 その他にも製鉄にかかわっていたと思われる地元の方々の名が連なっていて興味深く、近年の名簿からも、姓名などから子や孫へと世代を重ねて献穀を続けて頂いている事も分かって感慨深い。その中には「日刀保たたら」の村下として活躍されている国の選定保存技術保持者木原明氏の名も見えている。
 草薙館展示室を入って直ぐの所には一四五㌔のけら拳大こぶしだい玉鋼たまはがねが数個展示され、一際その神秘的な輝きを放ち拝観者を迎えている。これらは、令和三年の初操業で木原さん達の手で作り出されたモノなのである。必然とはいえ、当宮と奥出雲の鉄との奇しき繋がりを感じざるを得ない。

鉧と玉鋼

鉧と玉鋼

 さて、その鳥髪峰頂上では毎年七月二十八日に宣揚祭が斎行されている。その宣揚祭を要所要所に呼びかけられ、昭和五年の第一回宣揚(6)を斎主として挙行された当時の鳥取県日野郡神職会会長で、教育者として、また地元の顕彰に尽力された内藤岩雄(7)と熱田神宮との関係も見逃すことは出来ない。実は翁が昭和十年の本殿遷座祭(十一月一日)に合わせて献納した品々が宝物館に伝えられているのである。

第一回宣揚祭の記念写真

第一回宣揚祭の記念写真
中央が内藤岩雄翁
(日南町教育委員会提供)

 その主となる「天叢雲劔出顕地鳥髪峰写生図 三幅対」は、これまでも展示で屡々使われていたが、献納者や作者への言及は無く、不詳扱とされてきたものである。しかし、その箱蓋の内藤翁自筆の墨書から経緯は明かであり、更に同画の作者についても、落款解読と調査の結果、島根県松江市八雲町出身の画家「藪 満悦」であることも判明し(8)
 墨書をよく見ると、他にも二点奉納した事が示唆されていて、筆者は以下の物でないかと考えている。

烏髪峰写生図本紙

烏髪峰写生図本紙

 ①は、鳥髪峰写生図の箱蓋表の墨書と同筆。大きな木箱の中に船通山で採取された鉱物等の標本類二十数(9)が納められている。内藤翁は鳥髪峰宣揚祭の祭場である船通山山頂を私費を投じて整理と保存に努めており、その時などに採取した品々ではなかろうか。宝物館では、過去に鉱物資源等に詳しい者はおらず、考古資料の一部に分類されて仕舞い込まれ展示などに充分活かせなかったというのが残念ながら正直なところである。今回その経緯が明らかとなり、製鋼や神話伝承地に関する資料も少なからずあることから、視点を変えて是非に活かせればと考えている。

同箱蓋墨書

同箱蓋墨書
昭和十年十一月一日
天叢雲剱出顕地
烏髪峰 写生図大幅等五
熱田神宮正遷宮之日
鳥取縣日野郡山上村
奉納者
烏髪峰宣揚祭六回連続斎主従七位内藤岩雄(花押)
溝口村 本川熊次郎

箱蓋(表)と内容物全容

箱蓋(表)と内容物全容

同箱蓋墨書

昭和十年十一月一日
天叢雲御剱出顕地
烏髪峰(船通山)周囲神域産
鉱物 岩石 植物類
熱田神宮正遷宮之日
鳥取縣日野郡山上村
奉納者
烏髪峰宣揚祭斎主 従七位 内藤岩雄
日野郡溝口村 本川熊次郎
敬書

 ②の献納者は前掲の箱蓋表書に内藤翁と連名連署していた溝口村の本川熊次郎氏である。献納の年月日無く、署名は本川氏のみであるが、同時期の献納と見てよかろう。物は古くから良質な鋼として知られ「皇国一」と商標された地元特産の「印賀鋼いんがはがね」である。内藤翁の(10)に基づくのか、「日乃川」表記や奉納箱の材(宇佐八幡宮は日南町河上鎮座で、紅葉の名所でもある)にも拘りが見られる。本川熊次郎氏については未詳なるも内藤岩雄氏の近くにいた協力者で、或いは「印賀鋼」に何らかの関係があった人でなかろうかと推考している。

  • ②箱蓋(表)

    ②箱蓋(表)

  • 印賀鋼

    印賀鋼

  • 箱蓋(裏)

    箱蓋(裏)

  • 箱身(裏)

    箱身(裏)

 島根と鳥取、県は違えど天叢雲御劔出顕霊地である鳥髪峰(船通山)とわが国独自になる製鉄文化を共有するとともに、昭和十年の遷宮を契機として熱田神宮への献穀を今日まで続けられている事、また長らく不詳であった宝物が、同じく昭和十年の遷宮において、鳥髪峰宣揚祭をはじめられた方による献納であった事等々、草薙館の開館を機に見直されて明かとなった事に、筆者は深淵なる縁と奇しき導きとを感じざるを得ず、神話から今日につながる鳥髪峰との関係を更に強固なものとし、次世代へも伝えていかねばならないと思った。
 草薙館は漸う開館に漕ぎ着けたばかりである。時の流れは思ったより速く、その感慨に浸っている暇はない。立ち止まる事なく前進する以上、刀剣専用の展示施設としての新たな課題は今後も尽きる事は決して無いだろう。我々は、それら一つ一つと対峙して解決すべきであり、由緒にかかわる神話を背景にした柱を打ち立てたからには、刀剣文化を発信するセンターとしての営みを決して止めてはいけないのである。
 「剣」に語られた神教みおしえの随に、つつしみておこたる事のなく、知恵と工夫と勇気を以て決断し、自らの手で未来を切り拓いていくのみである。
 先人の営みを丹念に辿たどれば、敷かれた未来への道も自ずからに明らかとなると信じて疑わない。熱田神宮と刀剣、そして鉄とも連なる草薙館の更なる展開に期待して、 (完)

※(補注)

(1)同会の趣意書(会長髙山武士記)には以下の通りある。
日本刀製作のとそれに伴う技術は約二千有余年の永き歴史を有し、知識と知恵を駆使しながら改良と変遷を続け今日に継承されております。その技術の高さは世界に例を見ないことは周知の通りであります。また我々の遠い祖先は刀剣に強い生命力を見出し、その力によって不祥なる事から守護されると考え、代々、刀を敬い大切に保存して参りました。さらに刀剣に日本人独特の審美眼による奥深い幽玄の美を求め、これを鑑賞し心の糧として参りました。これらは決して絶やしてはならない重要な日本の文化であり、我々には次の世代に正しく伝えなければならない責任があります。
 毎年一度、草薙の御剣の御神前で刀剣とその技術を奉納することは伝承の一環であり歴史的文化的にも特に意義ある事であります。さらに御剣の御加護を賜ることができますれば完成度の高い作品を造るため真摯に研究努力を重ねている工匠の今後の精進の励みになること必定であります。
 ここに、草薙の御剣を崇敬し伝統文化の大切さを認識している人々が集い、これら工匠諸兄の奉納を支援し、自らは心の奉納をすることがこの会の趣旨であります。
(2)創祀千九百年記念造営に於ける神宝大刀の補修並制作、今上陛下御即位奉祝太刀、同記念鎚打鋼を以て制作した「四神文鉄鏡」「鉄大勾玉」の奉納、今回の剣の宝庫草薙館竣功記念鍛錬奉納等々がある。
(3)篠田康雄著『熱田神宮』(昭和四十三年学生社発行)一四九~一五〇頁を参考にした。
(4)大正十二年山頂に建立された「天叢雲劔出顕之地」(熱田神宮宮司野田菅麿揮毫)は、昭和五十年に落雷によって破損し、翌年に横田町と日南町の観光協会と船通山記念碑を守る会によって、熱田神宮篠田康雄宮司の揮毫により再建された。その除幕式には当時の岡本健治権宮司が参列している。因みにこの再建には堀江國蔵翁の後を受けられ道友会の座長格であった荒木宗重氏の尽力があり、そこにも深い関係性が窺える。
(5)昭和六十三年に道友会から発行された記念誌『熱田神宮 献穀五十周年を記念して』による。
(6)第一回の鳥髪峰神域宣揚祭は昭和五年六月二十二日に日野郡神職会と島根県仁多郡、能義郡、広島県比婆郡との四郡神職会の主催として行われた。祭典は盛況で鳥取県県知事以下参加者は千数百名に上り、熱田神宮から宮司代として主典の伊達巽(後の明治神宮宮司)が参列、内務省神社局長や稲荷神社高山宮司、賀茂別雷神社の桑原宮司(後熱田神宮宮司)等から多数の祝電が寄せられており、内藤氏の幅広い交流が知られる。昭和九年には山頂に石の祠を建てて熱田神宮の御分霊を祀り、十年には鳥居も築造して宣揚に努めた。宣揚祭は昭和十五年まで挙行され、十六年以降は翁の病気もあって断絶したが、没後二十五年目に日野郡神職会の決意により昭和四十三年七月二十一日に再興された。以降、今日まで船通山を守る会・島根県神社庁仁多支部・鳥取県神社庁日野支部・仁多郡神社関係者会・日野郡神社総代会・日南町神社総代協議会の主催で毎年七月二十八日に船通山記念碑祭とともに行われ、多くの登山者参拝者で山上は賑わう。
(7)内藤岩雄(明治七~昭和十九)については、木村正義著『内藤岩雄先生伝』(昭和四十七年千部自費出版)を主に、日南町美術館学芸員のブログと日南町図書館の「にちなんゆかりの人物」解説等も参考にした。
(8)藪満悦は明治三十三年松江市八雲町熊野生まれの日本画家、十九歳の時に片足を切断する事故に遭い、画道に志し、二十七歳の時に上京して竹内栖鳳主宰の「竹杖会」一期生橋本菱華に師事して、後に二代菱華を襲名している。一脚斎、華渓、八雲菱華などと号し、作品は風景や動物、山水を多く描いており、母方の安来市広瀬町山佐に多く残されている。昭和二十年四月没(享年四十六)。熱田の絵には「八雲華渓」「華渓」と書し「藪満」「華渓」の印が捺されている。

箱蓋(表)と内容物全容

(9)内容物は以下の通り。番号は仮番号で、[ ]は貼り紙の記載内容、〈 〉は筆者による推定仮名称である。
①[皇国一印賀鋼原料を含める 砂]、②[(俗栂) 加羅木材 2000年川上]、③[□□ 火山弾]、④[鉄玉」、⑤[太古 鉄滓 鉄含有]、⑥[鉄滓]、⑦[クローム 鉄含有]、⑧[閃緑岩]、⑨[礫岩玉 400m]、⑩[雲母片岩]、 ⑪[蛇紋岩 クローム 母岩]、⑫[礫岩 □450m 古水]、⑬[鳥髪峰 お栂さん 2000年以上 □□□] 、⑭[花崗岩]、⑮[□の川原 碓岩]、⑯[□□片 (ドレライト 西斧原村)]、⑰[鳥髪峰岩石 石英 斑岩]、⑱[□□□伊 川石 (直書)寄進者 青戸春之]、⑲[貝入 450m] 、⑳[□ノール 板岩] 、㉑〈猿の腰掛〉、㉒〈石英〉、㉓〈木化石?〉、㉔〈白雲母〉、㉕〈鉄鉱石〉、㉖〈銑鉄〉、㉗〈棒状鉄〉
(10)内藤岩雄は、古代出雲地方とは山陰道一帯を指し、日野川・簸の川・江川の源流は船通山鳥髪峰に発して一にする。比乃川上とはその船通山鳥髪峰を中心とする出雲・伯耆の山岳地帯であるという説。なお内藤は、その功績天朝にも達した教職を辞した後、『日野郡史』(大正十四年発刊)の編纂委員長として事業完遂に専念した。その後、昭和十四年六十六歳の時に京都大学西田直二郎博士の許で「雲伯古代史の研究」をまとめんと、研究に励んだが、惜しいかな二年目に病気に罹り完成ならず中断した。
【新注】日南町教育委員会の伊田直起氏のご教示によれば、本川熊次郎氏は溝口村の敬神家で肥料商を営み、内藤翁と意気投合して宣揚祭に協力したが、内藤翁に先立ち昭和十七年に亡くなられたという。