「剣の宝庫 草薙館」の
開館に向けて 福井款彦

第四回 真柄の大太刀 

太郎・次郎・そして三郎

 明治天皇が慶應四年七月七日に、王政復古の奉告と戊辰戦争における東北平定の祈願を込めて奉納された七口(1)は、伊勢の外宮と同様の御待遇をお示しになられたもので熱田神宮にとって大変意味のある奉納事例であります。
 元禄七年九月二十八日将軍綱吉生母桂昌院が奉納した長船利光の短刀、これにはその際に用いられた立派な葵御紋の刀筥が付されているが、伊勢の内外両宮にも家次と家正の短刀の同様奉納例があり、熱田神宮に対する当時の認識を知る上で興味深いものがあります。

桂昌院奉納の長船利光短刀と葵紋刀筥

桂昌院奉納の長船利光短刀と葵紋刀筥

切付銘に「文禄三年甲午七月七日織田越中守」とある刀は、無銘ながら南北朝~室町初期頃の作と鑑られる出来の良い備前刀。奉納者のいみなは無いが、信秀の子で、信長の諸弟、織田(中根)信照であり、その母は熱田商家の娘で、「尾張第一の美麗」(2)だったという。 
二十年ほど前に奉納記録をカード化して整理していると、尾州荒子住人前田慶二郎(3)が大小二口を奉納していることに気づいた。銘文からそれに比すべき太刀があり、疑問符を付けたままながら紹介したら、一躍アニメや遊戯具を通して人気だったカブキ者慶次郎のファン注目の的となった。過去の記録によく似た銘の別人奉納の太刀があり、未だにその物だと断定できず、慶二(次)郎とて勿論同名異人の可能性もあるが、奉納事実に間違いはなく、居住地と氏名の関係は重要視すべきだと思っている。
 不確かで伝説的な物を総てフィクションだと否定するのは容易いが、それでは決してフィクションを生み、それから派生した歴史の真相には迫れないと思う。
 物と人との関わり、その行為の背景を丹念に辿っていけば忘れ去られた歴史へと繋がる。点を線にし、更に広げて見直すことの大切さと面白さを、熱田宝刀はたくさん教えてくれるのである。
 歴史上の著名人物のみならずマイナーであっても、少し気長に調べれば明らかになることがある。熱田だけでなく、近在の神社にも同人の奉納刀があったりして驚いたこともあるが、要は気づくか気づかぬかであり、それまでの気長さと広がりを余裕として許してくれる環境の有る無しの如何にもよるであろう。
 神宮や神社は目先の急速な変化や時の流れに囚われず、伝統を重んじつつ、ゆったりと比較的長いスパンで歴史を見ている事が多い。その神宝たるを確と弁えつ、何故だろうと歴史に浸りながら考えようとする者には大変有難いのである。

熱田の真柄太刀 「私考」とその後

 熱田神宮の大太刀、真柄太郎太刀や次郎太刀も最近のオンラインゲームが発端となり一躍脚光をあびているが、江戸時代から有名で、衆目を集める存在だった。
 筆者が社報『あつた』に初めて投稿したのも所謂太郎太刀を主題にした「当宮所蔵 真柄太刀私考」(第一五八号、平成三年五月)である。宝物館ロビーで常設展示される尋常でない大太刀を目の当たりにした拝観者が興味を示して口にされた率直な疑問等を中心に、詳細な法量を提示し、奉納者と伝える山田吉久をはじめ、その経緯や背景、所持者の実像、用法やその他の大太刀などについて管見の史料を用いながら些か整理と推考を試みたものであった。

真柄(次郎)大太刀と拵え

真柄(次郎)大太刀と拵え

 平成六年正月には、可能な範囲で大太刀を全国から集めて特別展『大太刀と小道具』を開催、刀剣に於けるマクロとミクロのコスモ的対比展示もできた。更にそれを契機として真柄大太刀の立派な専用展示ケースが作られたし、兼武作大太刀(所謂「三郎太刀」に該当する)に元来装着されていたと考えられる元の刀匠鐔(4)も奉納された。さらに熱田神宮刀剣保存会の協賛等を得て、錆び付いていた大太刀を五口も研磨や修理(5)することにもなった。そしてこの度、その専用ブースが設えられた草薙館へ引越することになるのである。当時は誰も予想だにしなかったのだから不可思議と言うしかない。
 これを機に、今なお関心高い真柄大太刀について、前稿で割愛した史料などを掲げつつ、追考の結果、新たになった事項や知見などをまとめておきたい。

太郎太刀・次郎太刀の名称と十郎左衛門の身長について

 「先ずは混乱を生じやすい名称について整理しておこう。一般に文化財指定品では指定書の記載名称を正式名称とするようだ。しかし、この二口は未指定であり、熱田神宮の宝物台帳に「刀 銘 末之青江(朱銘)」「太刀 銘 千代鶴国安(朱銘)」と記載され、これが正式名称ということになっている。この典拠は、恐らく昭和二十六年三月発行の銃砲刀剣類登録証の記載に従ったものであろう。県教委の登録原票を精査しないといけないが、二十六年と言えば最初期の登録で、種別の相違、銘文の省略があり、計測ミスもあって、当時の混乱した様子が窺える。当然指定品のように詳細で伝来等を踏まえた調書や審議を経たものでなく、審査の時間も限られたものであったと推考されるが、謂わば人なら戸籍に等しいものであり、その名称変更は容易でない。ただ、展示などでは正式名称に拘泥する事無く、その時々の趣旨に則り、もっと柔軟な対応、即ち通称や別称・略称等を多用する方がより展示効果は高まること間違いなく、拝観者にも分かり易いようである。
 そもそも、通称や別称、雅号などは人だけで無く、物にもあって、刀剣類では特に多く「熱田国信」「蜘蛛切丸」「痣丸」然りであり、所謂「名物」(含私称)などは、所蔵者や来歴を包含し、そのモノに人格を付与する意味があり、その個性を際立たせており、文化的価値をも伴うと考えている。これからの時代、そうした多様性を無視しては何をか言わんやである。
 また元来、太郎・次郎には第一(先)・第二(次)の意味もあり、兄弟なら太郎とは長男、次郎とは次男である。五男の筆者などは、「昔なら五郎何某だと名乗るのだ」と子供の頃に教えられた。件の大太刀も、奉職間もない当時の担当上司から、刃長最長のものを太郎太刀といい、次を次郎太刀というのだと聞いた。即ちここ数年のブームの影響などでなく、以前からの歴史的用例に基づき、そのように弁別していたわけである。少なくとも熱田神宮では、不確かな伝承に拠る所用人物による分類名称との認識では無かったのは確かで、兄弟にしろ親子にしろ、そもそも通称による伝承が大半で、人物の諱の特定は難しく、現存する刀剣の寸法ともピッタリ合致する史料も今のところ見当たらないのだから、敢えてこじつけず、先人達が伝えてきた見解に従う方が科学的であり、ブレない姿勢は宝物として相応しいと思っている。
 どうしても不確かな点に触れざるを得ず、気になるというなら、慣例に従って「所謂」を冠したり、「伝□□」とか「~と伝えられている」という表現を使うのがベターである。
 さて、この大太刀を自由自在に振るった真柄十郎左衛門が「至剛ノ兵」「大力ノ強ノ者」「日本無双ノ大力」(明智軍記)「強力無双、善用大太刀」(朝倉始末記)「大力の剛の者」(甫庵信長記)との記述からも尋常でない体躯であったことは容易に想像できるが、その具体的内容には誇張もかなりあり、史料の信憑性に問題を生じる事となる。明確で無いものまで敢えて提示すると、それはフィクション即ち虚構となるので気をつけるべきだが、それでも現実感を踏まえたイメージできる数値が欲しいというのも正直なところである。そういう視点で史料を漁っていたら目に付いたのが以下に掲げる『真柄十郎左衛門尉景隆系譜』の一節である。
 真柄氏之裔出自池氏、景隆是平亜塊頼盛十七代之孫也。身長七尺、力能扛鼎嘗属朝倉義景公之麾下 公厚遇之賜以諱字刀匠鐔(下略)(6)
 系譜という性格上、史料としての限界はあるが、強力の表現は古典的常套句で「身長七尺」という数字など私どもの年代にはリアルであり身近に感じられた。七尺とは約二百十センチ、十六文キックで知られたプロレスラーのジャイアント馬場さんとほぼ同じだったからである。
 手入れや展示替えの時に筆者も真柄の大太刀を持つことがあり、コツは要るが持てないことはない。ただ、尋常なる刀を振り回す如く扱うには至難であると持てば直ぐに判る。しかし、「真柄十郎左衛門はジャイアント馬場さんとほぼ身長が同じだったようですから、恐らく自由に振り回せたのでは」と拝観の方々に説明すると、大概の方はイメージしやすかったのであろう、なるほどと頷かれ感覚的に理解して下さったものである。
 馬場さんを知らない年代の人が多くなってきた現在、さあ誰を引き合いに出そうかと考えている。

「熱田皇大神宮真柄太刀等覚書」の再検討三郎、研磨、朱銘

 熱田神宮権宮司家で祝詞師の田島家は、江戸時代に宝物刀剣の内、「四十二腰」(7)と称される刀剣類を預かっていた。他にも小野道風筆という春敲門額や弘法大師の笈も同家にあり(8)、どうやら宝物の管理や修理にも深く関与していたように思われる。
 その田島家文書中にある「熱田皇大神宮真柄太刀等覚書」(以下『覚書』と略す)は、真柄太刀と称される二口に元和六年(一六二〇)に制作奉納された兼武大太刀の計三口の寸法と寄進者、さらにその年月等を書き留めたもので、真柄大刀考察上基本となる史料である。

熱田皇大神宮真柄御大刀腰
一眞柄壹腰、身七尺五寸、中子弐尺五寸六分、
熱田御名尾州春日郡能野庄
(正)四年 山田甚八郎吉久
丙子八月(八)
一同壹腰、身六尺八寸、中子弐尺六寸、
熱田大明神奉(寄)進御大刀
信長御内能若夫婦之者也、
元亀元年八月吉日
一同壹腰、身五尺八寸、中子壹尺五寸五□
尾張国住人兼武作
元和六年
庚申二月吉日

熱田皇大神宮真柄御大刀腰
 一眞柄壹腰、身七尺五寸、中子弐尺五寸六分、
熱田御名尾州春日郡能野庄
(正)四年 山田甚八郎吉久
丙子八月(八)
 一同壹腰、身六尺八寸、中子弐尺六寸、
熱田大明神奉(寄)進御大刀
信長御内能若夫婦之者也、
元亀元年八月吉日
一同壹腰、身五尺八寸、中子壹尺五寸五□
尾張国住人兼武作
元和六年
庚申二月吉日

 この『覚書』を翻刻した(9)、書体は江戸初期頃と見られるが、本文中に年号誤記があることから天和(一六八一~八四)以降に書かれた公算が大きいと解説しているが、天野信景の『塩尻』に見える当時の祝師(田島仲康)が語ったという以下の一節により、享保三年(一七一九)に研磨した時に関する記録(恐らく研ぎに出す前の控え)ではないかと筆者は考えている。
 熱田神宝刀剣の中、其名ある物〈蜘切あさ丸のたくひなり〉註して奉るへきよし、関東の命ありて、此春二十四口、其銘を記して上りし〈是は泰廟(綱誠)の御時ゑらひて磨せられし古刀なり〉。去年戌真柄か太刀等三口磨し。此年亦多くの中にて撰ひ、然るへき古刀百五十三口を磨て鞘を新に調し侍る。と祝師家かたれり。(巻六十四)(10)
 享保四年春、関東(幕府)から名のある刀剣の銘文を注進せよとの命(これは所謂『享保名物帳』の作成に関わる調査に該当する)があり、尾張藩主徳川綱誠公の時(元禄六~十二)に選定して研がせた古刀二十四口の銘を記して上申したようだ。同年多数の宝刀中から古刀百五十三口を選び出して研磨、鞘をも新調したという。上申した二十四口の銘なども興味深いが、その前年(戌)に真柄太刀等三口が研磨された事が大切である。
 そこで、『覚書』を見直すと「真柄一腰」「同一腰」「同一腰」と記すだけで、銘文とも言うべき二口の朱銘については全く触れられていないことに気づく。また、真柄所用伝承に関わりない兼武自作奉納の太刀についても「同(真柄)」と記しており、『覚書』では「真柄」とはどうやら「大太刀」の意に使われているようで、この事は、後述するその同仕様の拵えや江戸時代後半での使用例からも、熱田神宮に於ける代表的な三口の大太刀を表しており、その意味で兼武作大太刀は、熱田第三(三郎)の大(真柄)太刀、即ち「真柄三郎太刀」と認識されていたものと言えよう。
 一方、朱銘については、法量(刃長は不正確だが、中子はほぼ正しい)やら寄進者を詳記していながら、作者への言及に関わる朱銘が書き留められていないのは、当時は未だ朱銘が施されていなかった可能性の高い事を物語っているのではないかと考えている。
 朱銘は、無銘刀の極めや鑑定人の名を、その茎に朱漆で盛り上げるよう置きつつ書いたもので、室町時代から行われていたようだが、本阿弥家では元禄(一六八八)頃より磨上でない生無銘の上作極めにのみ用い、その名も「朱判」と称するように改めている。この決まり事に従えば、上作ではない所謂長物の野太刀である真柄大刀に朱銘を施したのは、少なくとも本阿弥家ではないのである。
 また、朱銘は、象嵌銘)ぞうがんめいよりもはばき等の付け外しの時などに磨れて潰れたり剥落しやすい欠点がある。登録証でも一部省略が為されていたが、経年もあって現状は確かに読み難く、解説等では明瞭でないとして[  ]等でその存在を示すに留めている。しかし、次郎太刀については、展示される機会が少なかったため、朱銘が比較的残っており、以下の通り判読できるのは幸いである。

真柄次郎太刀の茎朱銘部

真柄次郎太刀の茎朱銘部
千代靏國安
木屋八郎兵衛研之 同 右兵衛」

 木屋は室町時代から続いた研師の名家である。江戸幕府お抱えとなった初代の常長(沢田道円、一五七四~一六四七)の後は、長男と次男がその禄を折半して隔年に江戸へ下向して御用を勤めている。長男が常与、次男の家が八郎兵衛であるから、読みに間違いなければその八郎兵衛と同族の右兵衛の手によって研がれたのである。さらに、朱漆の痕跡と位置から太郎太刀のなかごにも極めと共に同研師名があったことはほぼ間違いない。即ち次郎の「千代靏國安」と、太郎の方の「末之青江」もその研磨時に極められ、朱銘が施されたのではないかということである。
 管見の古い宝物目録類に、後世の追記は別として、真柄大太刀についての詳細な記述が見られず、享保三年以前に朱銘が無かったという証明は難しいが、朱銘による作者に初めての言及とみられるのは、享保三年の研磨から三十三年後の宝暦二年(一七五二)である。実はこの年にも、社家の依頼により大宮附と八剱宮附の神宝刀剣改めがあり、この時に真柄太刀も境内で研がれており、その様子も伝えられ興味深いものがあ(11)。研いだのは研師治郎兵衛で、彼が先の『覚書』を写したと思われる手控えに「無銘、作ハ備中癸(12)作刀」「無銘、千代鶴国安作刀」と加書し、初めて朱銘による太郎と次郎の極め(作者名)に触れられていることは興味深く、この様な点から、朱銘は享保三年の研磨時に木屋により極められ施されたと考えるのが妥当であろう。
 今ひとつ付け加えると、次郎太刀の平地には以下の如く奉納の切付銘があり、奉納者と年月日を確認できるのだが、太郎太刀には切付銘が現状では見られず、『覚書』に見える奉納記が何を根拠としたのか定かではない点である。

同刀身平地表裏切付銘

同刀身平地表裏切付銘
「熱田大明神奉寄進御大刀 信長御内熊若夫婦之者也」
「元亀元年八月吉日」

 しかし、太郎太刀の表裏中にその奉納切付銘があることを示唆するメモが存す(13)
 両真柄太刀の樋には朱が施されている。最近でこそ少なくなったが、曽ては樋中に朱を施した物(特に槍や薙刀)を良く見かけたものである、その施朱も研磨の度ごとであったろうか。ともかくも将来、研磨等により棒樋ぼうひの朱漆が除かれる時が来たら、切付銘所在の正否も明らかとなるに違いない。

真柄太刀の拵えと用途について

 真柄の大太刀を、刀身のみ、即ち裸身で茎を直でなら持てることは既述したが、拵えの柄を装着してとなると、太く丸みがある肉付きのよい柄なりのため、余程掌が大きく腕力が強くないと持つことさえ極めて難しいものである。
 その拵えについて、かつて拙稿でも触れた通り、金具類は無文の真鍮地で極めて簡素である。唯一意匠的なのは、柄に巻き込まれた熱田神宮の御神紋の桐と竹を象った目貫程度であり、『覚書』に記載三口同仕様なのが特徴といえよう。『張州雑誌』にもその図を掲げて「其製甚麁物ニ而帯スヘキ物ニ非ズ」(14)と注記しているように、粗略で強度的にも脆弱、決して実戦用とは考えられず、そうしたものとは別の用途があり、そのため見栄えに重きをおいて後世に拵えた物であったと考えて間違いない。
 然らば、その用途とは何かと言えば、五月五日と八月八日の神幸行列に捧持される威儀の神宝であり、幸いにもその時の様子が十八~九世紀に成ったとされる祭礼図等(15)に描かれていて以下の通り確認できるのだ。

神幸行列図二カット

[神幸行列図二カット]蓬左文庫本「熱田祭奠年中行事図会」
(五月「熱田宮鎮皇門神幸」〈七の19丁ウ~20丁オ〉、八月「熱田宮神幸之次第」〈九の14丁ウ~15丁オ〉)

 ところが、神幸行列の神宝について、各職掌・諸役ごとに提出された最も詳しい延宝九年(一六八一)の熱田神宮年中行事記類を繙くと、鉾や弓矢に続き、田島家預かりの四十二腰の宝刀は出てくるが、真柄太刀は記されていない事から、神幸行列に真柄太刀が用いられたのは延宝以降ではないかと考えるべ(16)で、その時期について思いを巡らしていたところ、偶然にも真柄太刀拵の柄下地にある以下の墨書を見出したのである。

柄下地墨書

「柄下地墨書」
享保三歳 戌極月吉日
名古屋上畠町 柄巻屋理兵衛

 全く同じ墨書が『覚書』所載の三口同じ箇(17)に存する。文字面だけでは柄を巻き直しただけなのか、果たして拵まで新調したのかは定かでないが、先の研磨の年とも符合したのは興味深く、今日目の当たりにする同仕様の三口の拵は、恐らくその時に新調されたものと筆者は考えている。
 制作から三百三年を経て金具はガタつき、部分的な欠損もあり、朱鞘もあちこちぶち当てて剥げた所を塗り接ぎ色目の異なる箇所も多く、鮫皮の代わりと巻かれた錦や柄糸も色褪せてしまっているが、仕上がった当初は朱塗鞘には簡素ながらも真鍮金具は黄金色に輝き、柄は金襴を着せた上に浅黄糸で巻かれ、遠目にも色鮮やかで、正しく神幸行列に相応しいハレのお拵えであったと想像される。
 かつて主の敗走への追撃を防ぐべくきびすを返して奮戦した真柄十郎左衛門の大太刀は、戦の後に勝者側の人物によって奉納され、戦が無くなった泰平の代には、その異形なるを以て熱田神宮の五月と八月の神幸行列に用いられて神幸を奉護しつゝ花を添えたのであり、それを拝観する人々の目に強く焼き付いたに違いない。近代以降であったろうか、その真柄の勇姿を偲ぶ大太刀を神幸行列で目にすること無くなったが、奇しきかなこの数十年、宝物館の入り口で日々訪れる人々を待ち受けていた訳である。さらに今秋からは草薙館に設えられた「真柄拝見壇」と称される専用ブースで、曽ての如く三口揃って参詣の皆々様の来訪を待つことになるようである。さぁ御期待あれ!

(文化研究員)

※(補注)

(1)熱田へ奉納された七口の銘文(表裏)と法量(刃長)を記録から以下に掲げる
①平安城住大隅守廣光 / 慶應四年辰二月日 長さ二尺三寸三分
②関住人藤原兼(忠)作 / 慶応四年二月日 長さ二尺三寸三分
③慶応四年二月日 / 運壽正一作 長さ二尺四寸二分
④慶応四年二月日 / 於皇都宮本能登守菅原包則造之 長さ二尺四寸三分
⑤平安城大隅守廣光 / 慶應四年二月日 長さ二尺五寸二分
 ⑥慶応四年二月日 / 於皇都三條宮本能登守菅原包則 長さ二尺五寸二分
⑦肥前國住人藤原忠吉 / 慶應四年二月日 長さ二尺二寸九分
(2)『尾張志』愛知郡の「織田越中守」の項に、母に言及「熱田に一人の娘あり尾陽第一の美麗たるよし」とある。
(3)拙稿「熱田神宮と前田利家 社家松岡家との関係及び慶次郎奉納刀について」(社報『あつた』197号、平成15年1月熱田神宮宮庁発行)
(4)平成七年十月斎藤氏の献納。竪横十七㌢、鉄地、切込木瓜形の薄手刀匠鐔で、表裏に「熱田大明神 元和六年」「上 庚申二月吉日 尾州犬山住兼武 作」と刀身と同様の銘が切り分けられている。
(5)兼房(刃長一〇〇・四㌢)、能登守泰幸(刃長一六一・五㌢)、手柄山正繁(刃長一一四・三㌢)、三郎太刀の兼武(刃長一四四・五㌢)に、刃長一〇九・七㌢ある高力長吉の拵え修復。
(6)系譜の内容は過去の調査メモに拠り、現蔵場所については不詳。なお、「身長○○、力能扛鼎」との威容表現は『書紀』のヤマトタケルにも見られ、その元は『史記』の項羽本紀にあるという。なお、未見であるが真柄所用という兜が貫前神社と東京都港区の瑞聖寺(十郎所用)に伝えられているという。
(7)拙稿「権宮司祝師田島家預りの宝刀ーその四十二腰の内容と「刀剣覚」の復元」(社報『あつた』198号、平成15年4月熱田神宮宮庁発行)
(8)『張州雑志』第四十一 熱田宮神宝部之二に図を掲げる。額には「今蔵田島祝師家」、笈には「田島家ニアリ」と見える。なお、春敲門額は宝物館に現蔵する。
(9)『熱田神宮文書』田島家文書・馬場家文書(平成九年六月三十日熱田神宮宮庁発行)の田島家第八号文書
(10)明治四十年明治書院刊『随筆珍本塩尻』下巻二二五~六頁。『日本随筆大成』〈第三期〉十五巻三〇〇頁。
(11)細工場所は「本宮西仮遷宮拝殿」(岩瀬文庫本『暁風集』の奥書)で、「先を浄縄にて天上へ釣、なかこをもち、つねのことくときけり、ときなともつねのことく柄をもちてあくる事ならす、二人してとりあつかへり、」(「熱田雑記」所引「熱田記」)『熱田神宮史料』縁起由緒続編(二)(平成二十一年三月十七日熱田神宮宮庁発行)所収)とある。
(12)「癸」は「葵」の誤字、「葵」は「青江」に通じてか、江戸期の戯曲などでは葵下坂を青江下坂としているものがある。
(13)『熱田本社末社神體尊命記集説』の伝本の付記に見える。なお刀身表裏に「熱田太神宮 尾州春日郡熊野庄」「天正四年八月八日 山田[  ]」と切付銘のある兼宿在銘の短刀があり、太郎太刀奉納者同人であると考えている。こちらは小振りながら重ねの厚い所謂鎧通しである。
(14)『張州雑志』第四十一 熱田宮神宝部之二に図を掲げ、仕様等の注記を付している中の一節。
(15)確認できるものとしては、『熱田祭事略』(『年中行事編下巻』所収、内藤正参撰、安永二年(一七七三)成立か)、『熱田祭奠年中行事図会』(蓬左文庫本は『年中行事編下巻』所収 文政九年(一八二六)ころ成立)、『尾張年中行事絵抄』中・下(『名古屋叢書三編』6・7所収)などがある。
(16)今回『熱田神宮史料』社職編・年中行事続編他で翻刻した安政四年(一八五七)の「御前家年中行事書並臨時祭式」では神幸に真柄大刀三口が用いられていて、「殿上神宝御飾之図」として以下の図が貼付されている。
(17)深い縁金具を外した柄下地に、一口は奉書を貼った上へ、二口は木地に直書されている。上畠町は御園町から伏見町の間で、その町名は慶長十五年に清須にあった地名を移したものという。
 

『尾張年中行事絵抄』中(『名古屋叢書三編6』所収)五月「熱田宮鎮皇門神幸」
『尾張年中行事絵抄』下(『名古屋叢書三編7』所収)八月「熱田宮神幸之次第」18~19c

真柄大太刀は、恒例の神幸行事だけでなく最も華やかな遷宮の行列でも用いられていた事が僅かに残る資料からも知られる。